お前は蟻を殺すだろう

感想

真っ先に、秋を感じた、という感想を持ったが特別秋には言及されておらず、私小説的な作品を集めたと解説されていた。
保吉ものは、子供の時も、成人した今読んでも面白いのでエンターテイメントだと感じました。
「大導寺信輔の半生」の、主人公のドロドロした暗鬱な感情の言語化は至高であると思いました。

先週の日曜日は神保町へ行きました。
台風が近付いていて雨風が強くてあまり動きたくないなあと憂鬱ながらもまず三省堂に行くと、催事スペースにて古書市が開催されていて、何となく徘徊してみれば4冊買ってしまった。
目当ての作家の作品は無くて、でも元来から読みたかったものに出会えてうれしかった。
その後は散在している古書店へ入った、と書いたものの、雨傘をビニールに収納するのがいちいち億劫になり、二軒だけ。
無事欲しかった作家のエッセイを手に入れた。装丁が美しい水色と青色で、この日の気分に相応しかった。
この日は奇しくもその人物の誕生日ということで、意図していなかったが、巡り合わせのように自分の意志がそこに向かっていた。故人の誕生日というものを祝う義理は無いが、特別視したい。
最後に入った店は有名店のようだったけれど、本を棚から取り出すと同時に蝿も出てきて、如何なものかと思った。
そして寿司を食べた。最近は唐揚げよりも寿司を愛している、と言うのも諧謔とは言えないほどに寿司が好きで、満足した。
この日は好きなブランドの洋服をカジュアルに着たくて服を選んだ。
買い直したヴィヴィアンウエストウッドのスモールオーブのネックレスはメッキなのに高いから、浪費癖を治したいなあと悩んだりした。
平日は、だいたいおんなじ毎日って感じで、だいたいおんなじことの繰り返しだった。
感情も苦悩も疲労も何もかもが変わらなくて、切なかった。やりたい放題な学生なんてものは存在しなくて、改めて私は堅実で無味乾燥な人生を歩んでいるのだろう。

帰りの新快速の40分間は、読書をしたいものの、流れで何故かクラスメイトと帰宅する。
日に日に自分の個の喪失に気が狂いそうになる。
トロフィーワイフという言葉が存在するが、それを夫婦関係以外、知り合いにも演じてしまうような。
ここでそれは容姿や年齢は除外して、ただひたすら思考も返答も何もかも相手の求めるものになってしまう、というか、本来の自分から大きくズレては何も分からなくなってしまう。
でも、本来の自分なんて私は元々掴むことができていなくて、一体自分は何なんだろうか、と、人間の思考の原点回帰のような恐ろしい状態でベッドに入る。
昔から思うことなんだけれど、インターネットでもよくある、自己分析というやつ、エゴグラムと言うのでしょうか。私はあれが本当にできなくて、
設問に対してそうである、から、そうではない、までそれらの度合いも加味された選択肢が用意されて、それのどれに自分が当て嵌まるのか何も分からない。分かった試しがない。
あれに基づいて、プログラムに芸術タイプだったり右脳派だったり精神性をカテゴライズしてもらえて、それを自分のものにできる。そんな健康優良な脳味噌が私には御座いませんでした。
だから、この帰り道だって、分からなくなって当たり前で、それが本来の自己像から逸脱に繋がるわけでもない。
主観と客観の平衡が存在しないだけで、最初から自分なんて何にもなかった。
と、悲しくて一度泣いてしまいました。
普通に成りたくても成れなかったから普通じゃない自分を確立して生きているはずが、遠目からは普通に順応できているように見えて、何一つ得をしなくて、
ずっと思っていたことなんだけれど、改めて社会に放たれたら、こう思った。
誰か一度規定してくれ、私を。

憧れる場所は物理的にも感情的にも程遠くて、取り敢えずセクアンの曲をたくさん聴きました。あと、怪人二十面奏について考えました。
私は本当に天獄に行けるのか分からなくなってきました。
選別せずむしゃくしゃして切り捨てた物の中に大切だったそれがあるような気がして、
だんだんよく分からなくなってきました。
今日はすきなお店の洋服を着た。
クローゼットで静まっていたワンピースで、3年振りに着たら、栗が気になった。
一生幸せになれない。