今ボクラだけが知ってる世界の果てから魔法をかけて

日曜日のライブは上手で見た。
ハルマゲドンの東京編には途中から行きだしたけど、ほぼ毎回上手で見ていたなあって今となって思い出したりする。多分、前にも書いたけれど単に自分の体力の問題だったりがあるからそこら辺で見ていた。はず。それがあるからなのか上手から見るステージがすきだ。きっと上手から見るぶうさんを見て落ち着く。
上手から見る赤い髪の総統閣下というのは、七日間戦争最終日の新宿BLAZEでも同じ光景で、あの頃と同じぐらいかそれ以上に輝いて、あの場所すべてを率いるアジテーターだった。
いつからかそんなに端で見ることもなくて、何でかっていうと最近は特に端の雰囲気が嫌で、だから端に行くことが億劫になったり、フロアの雰囲気が時間の経過と共に流動していてそれに驚くけれど、ライブは見る人によって善し悪しが変わるものだけど場所によっても気分や体調によっても全然変わっていくので、「生」って限りなく脆くて尊ぶべきものなんでだろう。
まあそんな深く考えることもないので後付けに過ぎないですこんなの。

私はぶうさんがすきだよ。
と、態々ワールドワイドにインターネット回線に乗せて愛を叫ばなくてはならないほどお前は疲れているのかと問われたらはいそうですと答えるしかないです。きっとこうして自己確認しなければならないんだと思います。
すきと言えば何度も何度も勘違いされるから嫌だけど、でも、勘違いする人には勘違いさせて掌の上で踊らせればいいと分かったので勘違いしたままで結構ですが私はぶうさんがすきだ。
今回のアルバムを「重い」と形容されることが多いように見受けられるけど、重いことが私には当然のように思えて、私みたいな無味乾燥で愛のない人間がここまで執着する生き物なんだから。ぶうさんが薄っぺらくてしょうもなかったら関心なんて微塵も生まれなかった。すきな人達とそれ以外で遮蔽された私の世界には断片でさえも存在しなかった。
ぶうさんがすきで、私の人生には存在しないからこそ、時間も金も払ってぶうさんの人生を買っている。それが自分にとって何も無いと感じたらやめる。
永遠ってやっぱ存在しないから、すごく難しくて、上手な比喩も思い浮かばないけど、
浮かない日々が続いて何もかも嫌で不安ばかりだったけれどライブが、歌が、凄いと感じたから笑えたことが嬉しかった。
ライブも歌も、「凄い」っていうことはぶうさんで初めて知ったし、それを原点でまた感じることができてよかった。
根底の不安の種は取り除くことはできないんだと思うと、刹那的な安息だったのかもしれないけれど、今は良しとしておく。

ぶうさんの人生を買っている、と下賤な書き方をしたけれど、
だからこそ私は怪人ラボがすごくすきなんだ。
怪人ラボしか聴いてなかったから他もちゃんと聴きたいと思ったのに今日も怪人ラボばっか聴いていた。
これからはちゃんと「アソウぶう」を見ていかなければならない。時間が掛かりそうだけれど愛していきたい。

とか自分で自分を律するようで面白いでしょう。
で、これまでとは関係のない話だけれど、私ウォークマン無しでは外出できない人間なんですよ。
大袈裟かもしれないけれど、ウォークマンを家に忘れて出掛ける日は帰宅して昏睡するぐらいには疲れちゃう。
醜形恐怖症の女がマスクを手放さないようにそれは依存対象だったのか、アルコール中毒の老人がワンカップ酒を常飲し続けるように毒物となっているのか、
どちらにせよ聴覚を遮断しなければ正常に生きていけないダメ人間。
真意は五感のうち削れるところは削ってできるだけセカイから切り離す為なのかなって自分で推察してるけど、どちらにせよ、そういう人間も存在するので、バンドや音楽って本当に命綱で誰かの救いになるんでしょう。
「救われたがり」にはもってこいのコンテンツ。
これは誰かが書いたことを読んで気付いたんだけど、今の私はどう足掻いても救われない人間みたいで、
だから今は少し音楽を聴くのを申し訳なく思う。